伊江島ってこんなところ
沖縄本島で「あの島は何ていう島?」と尋ねたらたいていの人が「伊江島だよ」と答えてくれます。なぜなら島外の人がタッチューと呼ぶ城山(ぐすくやま)の形があまりに特徴的なために、誰もが知っているから。沖縄の人に愛され、島の人に敬われている城山。 伊江島に渡ってみませんか。
伊江島の大きさ
面積約22.75 km²、東西8.4km、南北3km、周囲22.4km
伊江島の人口
4,293人(2023年12月末現在)
伊江島の産業
農業においては、さとうきび、島らっきょう、落花生、葉たばこ、花卉、野菜、果樹、肉用牛、乳用牛等が盛んです。
水産業では、もずく養殖、ソデイカ漁、延縄漁などが盛んです。
巨人『タンナーパ』の伝説
その昔、伊江島の東江村の森の近くにチカラタンナーパ(力玉那覇)という大男がいました。 その男は子どもの頃から体が大きく力持ちで、シンメナベ(28リットル相当の鉄鍋)いっぱいの豆を一人でたいらげるなど人々を驚かせてばかりいました。 ある日、平和で裕福な伊江島を占領しようと、大勢の兵隊が島に攻めてきました。そこで、チカラタンナーパは城山の頂上から大きな岩を崩しては投げて、敵を追い払ったそうです。 その時、チカラタンナーパが踏ん張った足跡が今でも城山の頂上に残っています。 それ以降、チカラタンナーパは島の救い主として崇め称えられ、現在まで伝えられています。 チカラタンナーパの足跡は、城山の頂上とヤマグシ、ヤブスンジなどにもあると伝えられています。
伊江島で沖縄戦を識る
沖縄戦の初期、1945年(昭和20年)4月16日から21日まで、伊江島では「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘があった。 日本軍約2000人、村民約1500人がこの6日間で戦死したが、現地召集の防衛隊員の多くも運命をともにしました。 戦後数十年たった今も、米軍基地の面積は島の35%を占めたままです。 1953年、米民政府は沖縄全県下で農民の土地を接収したため、伊江島でも真謝区、西崎区に始まり、1955年からはブルドーザーで住宅を壊し、農作物を焼き払いました。 島民は全県を歩きこの島の惨状を世論に訴え、沖縄の土地を守る「島ぐるみ」闘争の導火線となりました。 1961年には「伊江島土地を守る会」を結成。「団結道場」を建設し。戦いを引き継ぐ多くの青年を教育しました。 戦後、土地返還闘争の先頭に立ってきた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが、自分の土地を売って開いた反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」には、 戦争中の生活品や遺品、米軍の銃弾などが記録・展示されています。 阿波根さんは101歳で亡くなられましたが、90歳になろうとする時に『命こそ宝 沖縄反戦の心』を書き残しています。